「銀英伝」と「ガンダム」が目指したものは同じか?
|・ω・`) GW中にアマプラでゲゲゲの謎を見たりしたのだ。面白かったのだ
さて、ちょっと最近忙しすぎたので、せめてGW中はゆっくり休もうと思い、いろいろなアニメを見直していたのですが、最近、銀英伝とガンダムって、目指している目的としては「人類はどうするべきか」ということで一緒なんだけど、その手法が根本的に異なるんだなぁ、ということに気付きました。
銀英伝は実はかなり皮肉っぽい作品で、劇中に起こるいろいろな出来事は基本、歴史的な事実をベースにしていて、千年たって技術が発達した超未来でも人間の本質は変わらず、同じことをしている、という考えがベースなんです。
|・ω・`) まあこの点は、宇宙空間なのに2次元的に戦闘をしている言い訳ともとれる
銀英伝のほとんどの会戦は歴史的な戦いをベースにしてるので
(要塞対要塞ぐらいかな? きちんとオリジナルでSF的な戦闘をしたのは)
|;ω;`) でもこれは仕方ないのだ、本当の宇宙戦闘なんてやったら3次元的に描かないといけないのだ
それは多分、一般的な読者・視聴者の理解を超えてしまう…
ガンダムでさえ宇宙空間の戦闘をリアルには描いていないし
話がそれましたが、銀英伝は「人類の本質は千年たっても変わらない、ならどうするべきか」ということをベースとし、社会システムに論点を絞って物語を展開していきます。
一方のガンダムはというと、ファーストガンダムの後半、ニュータイプという概念が出てきてから「人類はより良いものとして本質的に変わらなければ」という視点からの物語を展開していきます。これは当時のニューエイジ思想から出てた概念ではありますが、それを映像的に見せるということはかなり画期的であったはずです。
そのため多くの人の心に残ったわけですが、ただ問題がありました。富野監督本人も言っていますが、「ニュータイプという概念を示せたが、それになるためのハウツーを示せなかった」ことです。つまり、ニュータイプという革新をなしうるためには、進化を遂げるためにはどうすればいいか、ということがZ以降のガンダムで示せなかったんです。
とは言っても、これはどだい無理なことです。歴史上、多数の哲学者、神学者、宗教家がこれと同様のことに取り組み、挫折しているのですから。それでも監督はニュータイプに次ぐ新しい概念「ギャザー・スタイム」を思考したのですが、これって結局、イデオンのラストにかなり近く、またそれを思考実験してみても、結局人類はうまくいかない、というのは旧劇場版エヴァンゲリオンでもわかるわけで(ギャザー・スタイムの概念は旧劇場版の人類補完計画とほぼおんなじです)、そのためこのギャザー・スタイムは没アイデアとなり作品に現れることはありませんでした。
なので、新しい概念を考えながら新しいガンダムを造り続ける、という状態になってしまった富野監督なのですが、結局下記のように、新しいなにかを提案することはできませんでした。
Z → 新しいなにかを示せなかったので、主人公発狂
ZZ → 新しいなにかを示せなかったので、ED曲で「まだ見えない」と言い訳
V → 新しいなにかを示せなかったので、「次の世代がやってくれます」と言い訳
( ゚д゚) ・・・
(つд⊂)ゴシゴシ
(;゚д゚) ・・・
(つд⊂)ゴシゴシゴシ
_, ._
(;゚ Д゚) …!?
ただ、富野監督は実はF91で軌道修正し、ニュータイプという革新で人を変えるのではなく、銀英伝と同様に、人類は変わらないものとして、どのような社会システムが望ましいか、という思考実験をしようとし始めたのではないかと思います。
|・ω・`) F91は社会システムだけでなく、機械との同化もテーマの1つだと思う
|;ω;`) TVシリーズとしていろいろやりたかったんだろうなぁ…
んでいろいろと話を要約しますと、富野監督は「ニュータイプ」という革新的な言葉を出したんですが、この言葉は結局、「2001年宇宙の旅」やイデオンのように、人類が次のステージに進むにはまったく新しい生物として作り直さなければいけない、という結論にたどり着いてしまう袋小路であったのではないかと思います。
|・ω・`) そして ∀で、本質的に変わらない人類を肯定するまで、この富野監督の戦いは続くのじゃ
|・ω・`) ただいつか、 誰かが、まったく違う新しいなにかを出すんでしょうかね