「無職転生」と「銀河英雄伝説」と「けものフレンズ」を考える

(2021年3月)

 2021年3月21日の岡田斗司夫ゼミで、アニメ「無職転生」が傑作だ、と取り上げられていたので、今更ながらアマプラで2話まで見てみました。なるほど確かにクオリティも高いし、演出も高畑演出を彷彿とさせるもので非常にレベルが高く、傑作といえると思います。でもなぜか心がぞわぞわしてしまい、それ以上見る気になれませんでした。なぜかを考えてみたところ、自分にはこの作品にただよう無責任感?がどうにも引っかかるようです。

 

 同日のゼミで「銀河英雄伝説」の話も出ていたのですが、この銀英伝という物語のテーマの1つは「清潔な専制政治と腐敗した民主政治のどちらが正義か」ということであり、民主主義側の主人公ヤン・ウェンリーの結論は「民主主義の政治の失敗の責任は人民にある。その1点だけでも腐敗した民主主義は清潔な専制政治に勝る。」というものでした。私は銀英伝を青春時代にモロに喰らってしまった人間なので、常に自己批判をする性質になってしまっています。なので、どうにもこの「無責任感(と言っていいのか?)」が引っかかってしまい、それ以上物語にライドできないでいるのではないかと思います。もしかしたら原作を全て読んでいったら、主人公がそれに気づき、カタルシスとして解消される展開があるのかも知れないけれど、どうにもこの心に引っかかるものが気になって続きが見れない自分がいます。岡田斗司夫氏は自称サイコパスで、感情移入を一切しないで物語を見れるそうなので、そういう人は純粋に物語を楽しめるのだろうな、とも思いました。

 

 少し話は変わりますが、「けものフレンズ」が話題になっていた時期、漫画家の山田玲司先生が「日本人が『あの頃に戻りたい、人生のリセットポイント』を設定する時期が、少し前は『ラ・ラ・ランド』や『君の名は』でもみられる『青春時代』だったのが、今となっては幼稚園まで行ってしまって、『けものフレンズ』になった」という評論をしていましたが、それを考えると、今流行っている異世界転生・転移ものは、ついに日本人の感性は「生まれる前に戻りたい」もしくは「生まれたくなかった」という究極のところまで来てしまったのではないかな、と思ってしまいます。ただ、異世界転生ものを好きな人たちが「ここ(現代日本)ではないどこかですべてをやり直したい」という切実な気持ち自体はわかります。

 

 ですが、ときどき見かける「チート能力を持って生まれ変わる」という設定のものはそれとは違うなにかを感じます。私から見ると「それって自分が強者側に立って弱者をいじめたいという願望を満足させてるだけだよね? 他人には他人の事情があるということすら理解しないで」と思えてしまうのです。

 

 あと、それとは別に、現状の異世界転生・転移ものは、設定は面白いんですが、「聖戦士ダンバイン(リーンの翼)」や「十二国記」といったハードな異世界転生・転移ものを既に知っている我々世代はどうにもそのご都合主義と設定の甘さが気になり、素直に感情移入できないのではないかな? とも思います。

 

 

「せやけど手持ちの能力(スペック)で戦うしかないんが人やもんな」 

漫画「エアマスター」より抜粋