「ブレンパワード」と「キングゲイナー」を考える (2021年6月)

 「シン・エヴァンゲリオン」が公開されまして(後日追記ですが、2021年8月にAmazonプライムでも公開されましたね)、インターネットでは様々な感想やら考察やらが溢れかえっていますね。私は映像の凄さにはあんまり興味はありませんので、物語的な考察しかしませんが、物語の表面的な部分で真っ先に思い出したのが「ブレンパワード」でした。で、同じような感想を持っている人はいるかなー、と思ってググってみたら、同じ感想の人が出るわ出るわ。旧劇場版を見たときも真っ先に思い出したのはイデオンでしたが、このとき全盛期だった2ちゃんでは「イデオン祭り」状態であったことを思い出しました。どうも庵野監督が作る物語は富野成分が濃いのかなー、と思いました。(あと、シン・エヴァンゲリオンの内部構造は∀ガンダムに近いと思います。もちろんそれだけではないですが。)

 

 で、いわゆる「富野復活3部作」のうちの1つの「ブレンパワード」の話です。この作品、よく言われるのがTV版エヴァンゲリオンの影響(と「もののけ姫」のキャッチコピーへのあてつけ)ですが、私にはこの物語は「Zガンダム・リベンジ」、その中でも特に「カミーユ・リベンジ」に思えるのです。というのは、主人公のユウを含め、ライバルキャラのジョナサン、裏ヒロインのクインシィ他、多数のキャラが私にはカミーユに見えるのです。そして、これらカミーユの側面を持ったキャラクターたちがすべて(自分とは違う異性によって)救われるという物語は、その救われる過程(主人公は2人の女性に救われますねー。しかも片方は突然消滅しますねー。どこかで見ましたねー。)も含めて「お見事!」と言いたくなるものです。ただこのブレンパワード、少し物語がわかりづらいことと、悲しいことに映像は作画崩壊レベルに近いですので、若い人は見てくれないだろうなぁ、と思います。

 

 そして3部作の最後を飾る「キングゲイナー」ですが、この作品、3部作の中で最も地味、というか話題にあんまり上らない作品なのですが、物語は明るくわかりやすい内容で、(作画崩壊している第21話以外は)作画も良好ですので、若い人も楽しめる内容になっていると思います。一方、この物語のメタファーの部分は、我々オールドアニメファンの一部を泣かせるものになっているような気がします。それはブレンパワードと同じく「Zガンダム・リベンジ」、とりわけ「クワトロ(シャア)・リベンジ」としての物語です。私にはこの物語に登場する、頼れる兄貴分のゲインが、「クワトロがあるべきだった姿」に見えるのです。カミーユを導くことができず、「僕もあなたを信じますから(一緒にやりましょう)」というカミーユに対し、「新しい世界を作るのは老人ではない」(つまり、俺はやらないから若いお前がやれ、というとんでもないメッセージ)ということを言うことしかできない、頼りない危ういメンターでしかなかったクワトロではなく、カミーユと似た主人公であるゲイナーに「聞こえるか!?俺の声が!!」と、直接心に語り掛け(まさか、視聴者を爆笑の渦に巻き込んだ第17話がこの劇的シーンの伏線だったとは…)、そして「お前はずっと1人で戦ってきたわけじゃないだろ?」というシーンの連続を見せることでそれを伝えるという、頼りがいのあるメンターであるゲインこそが、クワトロのあるべき姿だったのではないか、というものです。(そのほかにも、Zガンダムでは救えなかったフォウとロザミアを彷彿とさせるキャラが救われるなど。)

 

 そしてキングゲイナーのラストの極めつけは、正気を取り戻したゲイナーが1人でオーバーデビルを倒すのではない、ということです。フツーのアニメや漫画なら、覚醒した主人公が1人でラスボスを倒すのでしょうが、キングゲイナーはそうではありません。しかもそれをあくまで「自然にそうなった」と見せるために、ゲイナーは非常に自然な形で最後の戦闘の直前に眼鏡を落とし、そしてシンシアが目の代わりになるという演出をします。このシーンを見たときに、(シンシアの不自然なセリフは画竜点睛として) 本当に鳥肌が立ちました。「お前は1人じゃないだろ」という強烈なメッセージが最終回にはあるのです。

 (余談ですが、「オーバーデビルがオーバーフリーズを発動できる状況」にもこの「お前は1人じゃない」というテーマは適用されていて、オーバーフリーズされてしまう人たちは全て「自分が1人でなんとかしよう」と考えている人なんですよね。なので、「1人じゃない」と気づいた人はオーバーフリーズから解放されますし、最後のオーバーデビルをみんなで取り押さえるシーンで、オーバーデビルが誰1人オーバーフリーズさせることができないのは、誰も「自分が1人で何とかする」と考えていないからなんですよ。) 

 

 キングゲイナーの制作発表の時、富野監督が「今回の主人公はネットゲーマーの引きこもりです」と言っていました。が、ゲイナーはネットゲーマーではありましたが引きこもりとは違いますよね。多分、主人公というより、富野監督はこの物語を「引きこもり」の人たちに届けたかったのではないかと思います。特に最終回を。

 

 しかしこう考えると、富野監督は「やはりZはいろいろやりすぎた。あの物語のツケを払わねばならない」と心のどこかでは思っていたのではないかと思います。ただ、劇場版Zガンダムは別の意味でやりすぎだと思います…。