「Gのレコンギスタ」を考える (2021年1月)

 「Gのレコンギスタ」ですが、私はリアルタイムで視聴したのですが、かなり混乱しました。といいますのは、この物語の構造を見ると、表向きの話は「科学技術の伝承とはどのようにあるべきか」という「ヘルメス主義」をベースとし、救いがたい人間の業(好奇心、と言っていいのか?) を描きつつ、最終的には「科学の発展は本当に人を幸せにしたのか?」「無自覚に食料やエネルギーを消費している現代人(特に日本人)ってどうなのかね?」という疑問を投げかける内容です。しかし、その話の内容とはやや別に、主人公たちのあまりに無責任な行動ぶりが目立ちます。私は1回目の視聴ではこの無責任ぶりに納得がいきませんでしたが、少し頭が冷えてからもう1度見直したところ、どうもこの主人公たちの行動から、富野監督が若者たちに「若者よ、責任など感じずに、無責任に大人たちを殺してでも前へ進め」というアジテーションをしているような気がしてきました。

 

 これまでの富野監督の作品の主人公は、自分の行動に常に迷いがありました。特にそれが強く出ているのは「Zガンダム」の主人公カミーユで、殺してしまった人たちのことを常に考え(殺してしまった人たちのためにお祈りをしているというシーンすらある)、さらに劇中で死んだ人たちからの声を聴きプレッシャーを受けるなどの描写があり、それらが積み重なって、最終的には精神崩壊を起こしてしまいます。しかしGのレコンギスタの主人公ベルリには、殺してしまった人たちからのプレッシャーなど全く感じられず、死者の声も聞こえず(他のキャラクターには聞こえる描写がある)、また自身の行動による周囲の人間たちへの迷惑をあまり考えていない節があります。(後日追記ですが、このあたりの不自然?な描写は劇場版ではかなり緩和されています。)

 

 決定的なのは、主人公たち若者はほとんど死なず、大人(?)たちが殺されていく描写が多いことです。つまるところ、我々のような「若者でない」人間はもう死んで、若者の好き勝手にやらせたほうがいい、と取れる内容であるように見えるのです。でないと、あそこまで無責任にいろいろなことをやってしまった主人公たち若者に全く罰があたらない物語(大人たちには罰があたっている)というのは、これまでの富野監督の物語構築の手法を考えると、ありえない気がします(以前の富野作品では、若者も罰を受けています。Vガンダムのオデロなどがいい例です)。さらに、エンディングテーマでベルリが殺してしまった2人の「よき大人」と肩を組んで前へ歩いていくシーンがあるのは、まさにそれを示唆しているのではないだろうか、と思います。

 

 富野監督はこの作品を「大人が見ても楽しめない」と放送前に言っていたのは、つまり「大人は(富野監督本人も含めて)死ぬべきだ」と言っているわけで、なので、我々大人がこの物語が面白くないと思う(というか、楽しめない)のは当たり前だと思います。

 

 

 後日追記ですが、劇場版のⅠとⅡがYouTubeで期間限定公開されていましたので視聴しました。TV版のわかりづらいところがかなり直されていて、ベルリやアイーダの心境変化と、どのような組織が対立しているかなどがわかりやすくなっていますね。特に3話で違和感アリアリだった、アイーダが突然踊りだすシーンは完全に変わっており (クンタラの歴史をまったく説明してないのに、この踊りから「アイーダが強がっている」というの理解しろというのは無理ですよ富野監督) 、主人公たちの行動の無責任感はかなり薄まっている印象です。ただ、Ⅱはほぼ全編が戦闘シーンという流れで、少し食傷気味になってしまいました…。Ⅲはどんな出来になっているか楽しみですね。