「水星の魔女」でガンダムはきちんと天に昇ったのか? (2023年7月)

 ついに「水星の魔女」が最終回を迎えました。ストーリーの進行がかなり早く、人物描写が不十分とみられる箇所が多々ありましたが、それでも濃密な展開はまさに傑作アニメだったと言わざるを得ない出来でした。また物語の終盤各所には過去作ガンダムのオマージュ、例えば1stガンダムのラストシーンのコアファイターが十字架になって消えていくシーンや、「僕にはまだ帰れるところがあるんだ」のシーンをオマージュしたシーンがあったり、また自分はこの展開はある程度予想はしていたのですが、Zガンダムの最終回での、死者たちの魂が主人公を助けてくれるシーンのオマージュに、きちんと説明を添えて演出してシーンは良かったなと思いました(Zガンダム放映当時、このシーンはオカルトだと言われて大いにバッシングされたんですけどね。あとまあZに限らず、ZZ、Vの最終回でも死者たちが出てくるんですが。そう考えると、プロスペラは救われたカテジナなのかな?)。あと、少しずつ動くようになったというスレッタの体は、∀ガンダムの最終回のラストシーンで、少しずつ動かなくなっていくディアナの体との対比で、ディアナはこれから静かに死んでいくしかないが、スレッタたちには未来がある、という意味でしょうね(そういやディアナもラストのいわゆる「奇跡の6分」のシーンで突然指輪をしていたな…)。あと、最後のシーンのプロスペラは救われたカテジナ、という見方もできるけど、ディアナという見方もあるかも知れない、どちらも劇中で「やりきって、自身も納得して終えた」人物なので。

 

 さて、この作品、当初は大河内さんのいろいろなリベンジをするつもりだろう、という予測で過去作品からの読み解きをしていきまして、おそらくは様々な「呪い」からの解放がテーマだと読み、また物語の表面的な構造のベースはVガンダムだろうと考察していたのですが、大河内さんの影響もさることながら、やはり監督の影響も強いことがわかったことと、アニメ版「彼方のアストラ」などの監督をされている安藤正臣監督(私とほぼ同年代であり、私と同じく伊集院光のラジオリスナーであり、さらに私より富野信者)が私のはるか上をいく考察をされていましたので、それらと私の考えを合わせながら読み解きをしてみました。

 

(念のためですが、以下は私の勝手な解釈です。)

 

 最初に、おそらくなのですが、製作陣が物語に込めたメッセージはおそらく最終回前の23話まででほぼ伝え終わっていて、基本的に最終回は「水星の魔女」という物語をたたむための1話なんだと思います。この構造はVガンダムと同じです。

 

 なので、23話までで視聴者に伝えたいメッセージはほぼ終わっていると考えてそれを読み解きますと、まず主人公のスレッタ(とその同年代の学園内の登場人物)はなんのメタファーかといいますと、これはまさに今の若者たちのメタファーなわけです。また学園の中で行われている決闘すなわちMS戦は、ネット上の言い争い、いわゆるレスバトルのメタファーなんです。その中で主人公のスレッタは当初ガンビット、ガンダム用語でいうところのファンネルで無双をするわけです。つまり当初のスレッタは、ツイッターでファンネルを使いまくって無双する人のメタファーなんです。かみ砕いて説明すれば、スレッタは他人の言葉を使って戦ってるので(なので、エアリアルとエリクト、さらには他のガンダムパイロットたちは、いわゆるネット上のインフルエンサーたちのメタファーかな?)、自分の言葉で戦っている他のガンダムパイロットとは異なり自分は苦しまず傷つかず戦って無双します。また現実の世界ではこの少数のインフルエンサーとファンネルたちの言動により、社会に分断が生じているのは皆さんもご存じの通りですが、この分断を作品内ではスペーシアンとアーシアンの戦い、さらにはスペーシアン同士の戦いという形で表現しています。

 

 さて、主人公のことに話を戻しますが、スレッタが自分の言葉で戦っていないという表現は、スレッタが当初母親に言われた言葉しか使わないことからも伺えます。しかし物語が進むにつれ、スレッタは様々なことに傷つきながら自分の言葉と自分の仲間を見つけることになります(第21話はその過程が非常にわかりやすく描かれています)。その結果、ファンネル(ガンビット)を持たないMSであるキャリバーンに乗り、パーメットスコア(これが意味することは、自分の言葉で戦うこと)に苦しみながらエアリアル・エリクトと対決することになるわけです(さらに最終話のラストでは、エリクトですらファンネルを使うことを止め、自らの言葉で戦い始めます)。

 

 つまるところ、この一連の流れで製作側が今の若者たち伝えたいことは「若者たちよ、ファンネルを使ってネット上のレスバトルに勝つ人たちに憧れてどうする?大切なのは自分の言葉と現実の自分の仲間だろう?傷ついてもそれを自分で探し出せ」ということだと思います。また、インフルエンサー的役割であった人物がいなくなると、学園の仲間たちが少しずつ分断から解放されていく様子も描写されており、製作側のこの世代に対する信頼と救いも表現されていると思います。

 

 次に、我々氷河期世代に対しても実はこの作品はメッセージを出していまして、ベルメリアとプロスペラは我々氷河期世代の人たちのメタファーだと思います。まずベルメリアさんですが、この人は氷河期世代のサイレントマジョリティーのメタファーでして、この方、物語を通して「生きていくためにはこうしていくしかなかった」という泣き言を言います。一見同情してしまいそうになりますが、若者たちからは「なぜ戦わなかったんだ」とか言われ、あまり同情されません。これ、まさに我々氷河期世代がどのように世間に見られているかを表していると思います。「じゃあどうすればいいんだ?」と思うかもしれませんが、ベルメリア(つまり氷河期世代)は結局、泣き言を言いながらも前を見るしかないんです。ベルメリアは23話で最後まで前を見て戦ったからこそ、エラン5号は認めてくれたわけで、結局はそうするしかないんです。そして物語全体を見直すと、ベルメリアって結局、なんだかんだ言いながら大活躍してないか?ということも見れるんですがね。

 

 一方プロスペラは主として世間に対し「居場所がない」と考え、ものすごく簡単に言うと社会に対し復讐をしようとしている氷河期世代のメタファーだと思います(プロスペラは復讐ではなく娘のために行動していますが)。なのでこの物語は、すごくざっくり説明すると、氷河期世代が起こそうとしているテロを若者たちが止めようとする、という構図のお話なのです。そしてそれを止めるためには、結局氷河期世代が苦しみながらも前を向き、さらにその苦しみを若者世代が認めてあげるしか方法はない、ということを最終回で伝えているわけです。

 

 そして最後、老人世代に対してもメッセージを出しています。デリングは基本、富野監督のメタファーだと思いますが、デリングら老人たちは物語終盤、体を張って若者たちに協力し始めます。しかしながら、これはVガンダム第50話の老人たちの特攻シーンが伝えていることと基本は同じで「なんでこんなことになるもっと前に、若者たちを信頼して協力してあげてなかったんだ、なんでもっと前に体を張らなかったんだ」という贖罪のシーンでもあったと思います。

 

 さて、ここまで最終回1話前までの、製作陣のメッセージでありましたが、最終回にも制作側からのメッセージはきちんとあるにはあって、結局、主人公たちはいろいろ頑張ったけど、根本的に何か解決したか?と言われると、あまり解決はしていないわけです。この終わり方は太陽の牙ダグラムとほぼ同じで、これから若者たちがどうするか、という問いを投げかけていると私は思います。(そして、まだなにかやろうとしているデリング=まだアニメを作る気でいる富野監督も最後に出す、というこの凄さ)

 

 最後に、蛇足の考察ですが、最後のガンダムたちが消滅するシーンは、Vガンダム最終回においてエンジェル・ハイロゥ(水星の魔女でいうところのクワイエット・ゼロ)は昇天しましたが、ガンダムは天に昇れず地上に残ってしまう(つまり、ガンダムは成仏できず商売道具として使われ続ける、ということのメタファー)、というシーンのアンチテーゼとして表現されていると思います。つまり「水星の魔女」では物語の最後にガンダムたちを消滅させ昇天させることで「ガンダムに頼った商売はもうやめろ」というスポンサーや製作会社たちへのメッセージを出しているんじゃないですかね?