「タコピーの原罪」から富野由悠季みを感じると考える (2022年3月)

「タコピーの原罪」の最終話が公開されまして、1話から追いかけていた私としましてはどんな結末かなぁ、と思って読んでみたのですが、読了しましたところ、作者の前作「キスしたい男」の結末でも感じていたのですが、どうにもこの人から「富野由悠季み」を感じます。

 

 私、中学生のとき、たまたま劇場版「伝説巨神イデオン」と「天空の城ラピュタ」をほぼ同時に見てしまいまして(イデオンはテレビで見たのですが、ラピュタはなぜか学校で上映会みたいなのをやった気が…)、で、両方を見比べた結果、まだそのときは富野監督のことも宮崎監督のこともよく知らなかったのですが、中学生のまだ人生経験の少ない、足りない頭ながら、「イデオンの作者は人類に絶望してないけど、ラピュタの作者は人類に絶望しているんじゃなかろうか」という感想を得た記憶があります。といいますのは、イデオンは劇中ずっと絶望を叫びながら(私は精神的につらい時、一刻も早く自分が絶望の底に達するために、カーシャが「そうよ、みんな星になってしまえ」と慟哭するシーンを見ます)、ラストは希望を見せます。ですがラピュタは劇中では希望を叫びますが、そのラストは「で、その後どうなるのよ…」というその後の絶望しかないような気がしたのです(ラピュタはちょっとわかりづらいですが、漫画版ナウシカなどは非常にわかりやすい、劇中で希望を叫びながら絶望しかないラスト、という内容ですよね)。で、その後富野監督と宮崎監督両方の作品を見続けますと、やはり富野監督は劇中で絶望を叫びながらラストで希望を見せるお話が多いのに対し(富野監督作品の中でも最高峰に暗い話である「閃光のハサウェイ」でさえ、最後に希望を見せます)、宮崎監督の作品は劇中は楽しいのですが、ラストに絶望を突き付けるお話(「崖の上のポニョ」は終始、男の絶望だったような気もしますが…)が多い気がします。

 

 で、「タコピーの原罪」に話を戻しますが、この作者の作品、前作も含めて、劇中で絶望的な状況をこれでもかと見せながら、ラストで希望(救い)を見せるというこの展開は、まさに富野監督の手法そのものだと思います。また、話の展開的にもややスピリチュアルに寄っていること(富野監督は「イデオン」「ダンバイン」「Zガンダム」などスピリチュアル寄りな話の展開が多いですが、宮崎監督の作品はスピリチュアル的要素がかなり少ない、もしくはスピリチュアル的な話のように見せない)、その内容が私小説的でありながら社会性・人間性を問いかける内容であることも含めて、富野信者の私から見ると、「富野由悠季み」をヒンビンに感じてしまいました。「タコピーの原罪」の内部構造として、一番近いのは「キングゲイナー」でしょうかね(「人間は一回死ぬまでは他人と分かり合えない」というイデオンにも近いかもですが、あそこまで破滅的でないような気もしますので)。そんな感じがします。

 

 この作者さん、多分ワンピースや鬼滅の刃のような一般受けするような作品は描かず、それとは違う路線の作品を描き続けることになるような気がしますが、ぜひこれからも物語を紡いでほしいなあ、と思いました。