最近のアニメ・漫画のトラウマ自白ショーについて考える (2021年8月)

 いつまでも最近のアニメについていけないのもいかがなものかと思いまして、「鬼滅の刃」と「呪術廻戦」を見てみまして、非常に楽しく拝見させていただきました。で、感じたことは、最近のアニメ・漫画の作者さんたちは作者さんたちで大変だなあ、という感想を得ました。といいますのは、どちらの作品も(私から見ると)随所に登場人物に人物的厚みを持たせる意図で、自分のバックグラウンドを延々と説明する「トラウマ自白ショー」が散見されるからです。

 

 私の好きな富野監督の作品には、登場人物が自分のトラウマを延々と自白するようなシーンはほとんど見受けられませんでした。これには理由があって、アニメを「文学」や「映画」と同じレベルまで押し上げようとした高畑勲という偉大な方がいまして、宮崎駿監督や富野監督はこの人の影響を多大に受けているのです。高畑監督はトラウマ自白ショーのような誰でもわかる演出を嫌い、別の方法で登場人物に厚みを持たせようとしました。では、高畑監督がいかにして登場人物に厚みを持たせたかというと、何でもない背景の絵にその人物の人となりを表すようなものをこっそりと配置して見せたり、言葉によって登場人物の表情を細かく変えたり、同じ意味をなす言葉でもその人物のバックグラウンドによって表現を変えたり、「こんなことがあってな」というような、ほんの一言だけ言わせたり、など、登場人物にそのものずばりを自白はさせないが、視聴者側にそれとなく人となりを伝えるような「なにか」を重ねて重ねて、人物像をミルフィーユ状に重ねていくことで厚みを持たせる方法を取ったわけです。

 

 ですが、この手法でキャラクターに人物的厚みを持たせるためには長い時間がかかります。昔のアニメは普通で4クールの約50話、悪くて2クールの約26話、というような時間がありましたのでそれができましたが、最近のアニメは通常1クール約13話、話題作でようやく2クール約26話という構成ですので、あまりそのような細かい人物描写に説明を割くわけにいきません。さらには「視聴者にわかりやすく」が最近の潮流ですので、いろいろな知識をもっていないと察せない、高畑演出のような表現はもうあまりできないのでしょう。だから最近のアニメや漫画は「生存戦略」としてこの「トラウマ自白ショー」という戦法で、(私から見ると)かなり強引にわかりやすく登場人物に厚みを持たせようとしているわけです(まあ、これを大々的にやったのはTV版エヴァンゲリオンが最初あたりなんですが、それでも最終回近くだけで、物語の途中途中でやるようになったのはここ最近だと思います)。

 

 この「生存戦略」を私は否定しません。といいますのは、富野監督が「アニメで文学(映画)をやりたい。でもそんなことをしたらスポンサーがつかない。なので表面では派手なロボットプロレスをやって、その裏でドラマをやって文学をやろう」という生存戦略をとったのがザンボット、ガンダム、イデオン、ダンバインといった作品群なわけです (そして「ロボットアニメなら挑戦的な作品が作れる」という土壌とフォロワーを生み、日本で阿呆のようにロボットアニメが作られる原因の1つになったわけです)。ですので、状況や社会情勢に合わせて自身の生存戦略としてトラウマ自白ショーを使用するのはひとつの手段であると思います。「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」はそれは手段として割り切り、それとは別の、作者が表現したい「なにか」を読者や視聴者に伝えようとしているので、広く評価が高い作品となっているのではないかと思います。

 

 ただ、この「トラウマ自白ショー」という安易な方法を使ってもなお、「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」がきちんと作品として見てもらうことができるのは、偉大な先人たち、例えば手塚治虫や高畑勲が、漫画やアニメを文学や映画と同等のレベルまで引き上げてくれたおかげである、という歴史も知っていて損はないと思います。