「エルガイム」と「Zガンダム」を考える (2021年4月)

 Youtubeのサンライズチャンネルで「重戦機エルガイム」が配信されていますが、折しもプレミアムバンダイで予約していたHGシリーズも届きましたので、エルガイムについて少し考えてみました。

 

 エルガイムの世界観は富野監督の原案なのは確実なのですが、どうやらストーリーラインは永野護氏のものらしいニュアンスがあります。その証拠として、まずエルガイムの原案である「ムゲン・スター」(富野監督が作った初期プロット)には、ギャブレーやファンネリアといったおなじみの人名は出てきますが、ストーリーがエルガイム本編とはかなり異なることと、エルガイムには富野監督が自分を投影したと思われるキャラ(例えばガンダムではシャア、イデオンではドバ、∀ではコレン)が配置されていないことがあると思います。アマンダラ(真ポセイダル)が富野ではないか、と思う人もいると思いますが、私はアマンダラは①永野氏から見た富野監督(もしくは湖川氏)、②富野監督が倒すべき過去=ガンダム、のいずれかであって、富野監督自身が自分の投影として配置したキャラクターではないと思います。(ダバやギャブレーがアマンダラに最後に言い放つ「もうお前たちの時代は終わった」というのは、永野氏が富野監督や湖川氏に言いたかったことか、もしくは「もう『ガンダムの富野』と言われるはのうんざりだ、お前は終わった話だ」という富野監督の心の叫びであったように思います。)

 

 まあ、「あの世界は永野にあげた」と富野監督自身が言っているわけで、エルガイムのストーリーライン自体は永野氏のものなのではないかな、と予想します。ですが、エルガイムで富野監督が作り上げた物語はZガンダムとよく似ているのはご存じの通りです(洗脳されて助け出されるけど、本質的には救われないヒロインや、女性を傀儡として好き勝手している真の敵や、主人公は生きているけど社会的には抹殺されてしまうこと、など)。なので、エルガイムはそのテーマから「プレ・Zガンダム」と見ることができると思います。ただ、このエルガイムという作品は、アマンダラが非常にわかりやすい「倒すべき敵」として表現されていることで、ヒロイックファンタジーとしてある程度well-madeな作品であったことと、その先進的なロボットデザインが非常に注目されたことで、作品が問題提起したことはそれほど話題にならなかった、という認識なのではないかと思います(結構深い問題提起をしていますけどね)。

 

 ところが、Zガンダムはエルガイムで表現した問題提起を先鋭化させ、さらには富野監督の私小説、つまりサンライズ経営陣やガンダムファンに対する怒りと絶望を入れたため、最後の敵であるシロッコ(シロッコは富野監督の倒すべき敵=サンライズの経営陣のメタファー。)が「実は裏で見えないように暗躍している奴」という非常に見えづらい、わかりにくい「倒すべき敵」として描かれています。ちなみにファーストガンダムファンのメタファーとしてハマーンがいます。そう考えるとZガンダムの最終回で、劇場でシャア、シロッコ、ハマーンが会話をするシーンは、当時の富野監督の苦悩がそのまま描写されている構造になっていることがわかります。(そのシーンで、劇場の舞台に上がっているのがシャアだけで、シロッコとハマーンは座席側にいるのがまさにそれを物語っています。)

 

 このように、Zガンダムは富野監督の私小説的な、複雑なメタファーで構成されているため、物語の展開を理解することがやや難しい構造になってしまっています。そのためシロッコはアマンダラのような「こいつが最後の敵」感が非常に薄い印象になってしまっていたと思います。このわかりづらい展開と、あまりに物語に入れすぎた私小説により、Zガンダムはその後伝説的な作品になり、のちにエヴァンゲリオンに続く流れになってしまったのではないかな、と思います。小説版Zガンダムはカミーユの主観をベースに物語が進むため、富野監督の私小説感がTV版より薄まっていて、物語の展開がまさにTV版エヴァンゲリオン+旧劇場版に近い形になっていますので、興味のある人はぜひ読んでみてほしいです。